私を知ってほしかった (2024年9月24日〜 京都新聞・夕刊)

@あざける空気 居場所なく

A「連帯責任」納得できず孤立

B「誰が見てもハブられている」

C「私は誇りも失うことに」

D川に漬かり「死にたい」

E被害者の発達特性に転嫁

F自分が悪い 否定の言葉連ね

旭川いじめ自殺の再調査委員を務めた弁護士


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@あざける空気 居場所なく

 男子も女子もおしゃべりに夢中になっている。教室で椅子を寄せ合い楽しそうに。でも、自分が近づいていくと「あ、ごめん」。いつもはじかれる。周りと違う自分に問題があるのだろうか。友人に心の内を漏らした。「私、気持ち悪いよね。だから避けられているんだよね」

 2019年春、広瀬爽彩さんは北海道旭川市の公立中学校に入学した。同じ小学校の出身者はクラスに3人だけで、ほとんどは別の小学校から。クラスでの立ち位置をリセットするには、ちょうどよい機会に思えた。

 入学直後から何にでも前のめりに取り組み、初めての学力テストで学年1桁の成績を修めた。塾との両立が難しいと考え、部活動に入るのはやめたが、クラス役員に立候補して副委員長になった。3年生になったら生徒会長になる夢があった。

 ただ、同じ小学校や部活動の仲間を中心に形づくられていく人間関係の中で、I人その外側にぽつんといた。

 クラスではいつも浮いていました。(中略)私はちょっとした持性を持っていたからです。それが自閉症スペクトラム症です。(20年5月、SNSの記録)

 4月下旬の学級旗のデザインを考える時間。虹の色の塗り方についてクラス役員に意見を述べた。「科学的に正しい順番で塗るべきでは」。だが、他の役員は塗り方はどうでもいいと考えているようで「人の意見をあんまり否定するようなことを言わない方がいいよ」と反論された。

 体が固まり、しばらく動けなくなった。「私もう帰ります」。そう言い残して走って外に出た。

 小学生の頃からだ。感情が高ぶると「その場を離れる」ことを自分なりの対処法にしてきた。中学でも落ち着きたくなると保健室に駆け込んだ。「人間関係がすごい下手くそ」と自覚していた。母親には正直に吐露した。「自分の言い方がよくなかったのかな。どう言えば伝わるのかな」

 教室を出て行くことが重なると「私もう帰る」という自分の様子を同級生がまねし始めた。他の生徒がそれを笑うと、教室内にからかってもいいとう空気が漂った。次第によそしい態度を取られるようになった。

 クラスでのグループワークルでは、中心的な女子生徒らに駆け寄っても「人数がいっぱいだから」と突き放され、男子生徒からは「キチガイ」「アタオカ」(頭がおかしいという差別的な表現)とやゆされる。保健室へ行けば、悪目立ちするのは分かっていた。でも、それ以上に教室にはどこにも居場所がなかった。

 入学から3ヵ月足らずで学校に行けなくなった。―人欠けた教室でも、からかいはやまなかった。

      ◇  ◇

 21年2月、14歳の広瀬爽彩さんは雪が降り積もる旭川市の公園で自殺した。自分の性を差し出してまで、いじめをする先輩から離れることができなかった。「私のことを分かってほしい」。そう願った彼女の心を何か押しつぷしたのか。市の再調査委員会の報告書や取材を手がかりにたどる。


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A「連帯責任」納得できず孤立

 ある日の小学校の帰り道、年下の子に傘を差し出した。横殴りの雨を受けながら、自分はずぷぬれのまま帰宅した。塾で友人が悪口を言われていると「なんでそんなことを言うの」とかばった。困っている人を見ると、放っておけなかった。

 花火を見るのは好きなのに、ドンという音が苦手だった。トイレで水が流れる音にも耳をふさいだ。広瀬爽彩さんは幼少期から感覚が過敏で、抱きしめられたり、洋服のタグがチクチクしたりするのが嫌いだった。

 3歳の頃には平仮名を全て読めるようになった。小学校に入ると、ハートやスペードマークを未知数にして方程式を作り、問題を解くことができた。

 小4の時、学芸会で主役級に抜てきされた。舞台での練習中、出番のない子たちがステージの裏で騒いでいた。その様子を見つけた担任の先生は、なぜか「連帯責任だ」と全員を叱った。後にクラスのみんなで先生に謝りに行ったが、関わっていない自分は納得できず同行しなかった。

 「だって、私話していない」。翌日、担任から改めて謝罪を求められ、言い返した。口論になり、担任は「もう劇はやらせない」と母親が作った衣装を取り上げ、他の児童に渡した。「謝れと言っても謝らず、連帯責任が分からないのは何か問題があるのではないか。発達障害の検査を受けてほしい」。そう母親に言い放った。

 病院に行くと「知的障害はないが、他者とのコミュニケーションがうまく取れないことによる自信のなさ、傷つきやすさがある」。自閉スペクトラム症と診断された。

 小5に進級する頃には「自分と他の同級生は違う」と意識するようになった。でも、違うにしても「何が違うか」が理解できない。クラスでも孤立しているように感じた。どうしてよいか分からず、パニックに陥ることもあった。

 2学期から特別支援学級に。学校は主治医と連絡を取り合って対処してくれたが、同級生との関係に傷つきやすい自分の心の内は分かってもらえなかった。

 中学に入ってからのこと。担任が掃除の時間にふざけている生徒を見つけ、真面目にやっていた自分まで注意された。

 今度も怒られた理由が分からなかった。担任に「私何をしたらよかったんですか」と尋ねると「それを自分で考えて」。突き放されたように聞こえ、走って教室を出た。

 翌日、担任から「嫌な思いをさせて申し訳なかった」と謝られた。母親には「なぜ怒られたのか周りは分かっていたのに、自分は分からずつらかった」と話した。


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B「誰が見てもハブられている」

 中学入学後のある日、クラスに溶け込めずにいた広瀬爽彩さんは、担任らに「自分の特性についてみんなに伝えたい」と話した。理解されにくい自分のことを周囲に分かってほしいと願っていた。先生たちも認めてくれ、自宅で文章を考えることになった。

 ルールを守ったり、物事に集中したりするのは得意だった。母親と一緒に発達障害に関する情報を調べながら、ノートに鉛筆で原稿を書いた。ところが、それを読んだ担任は「自分のだめなところを並べた内容」と受け取った。そのままクラスで読み上げても良い結果にはならないと考えたらしく、手直しするように指示された。

 思いを込めた文章だった。自分を否定されたように感じた。「この言い方以外考えられなかった。これじゃなかったらもうありません」。書いてきた文字を消しゴムで勢いよく消した。担任からもう一度考えてみるよう言われたが、書き直しはしなかった。

 病気のこと話させてくれなかった担任の先生とかがいて、病気のことも先生も怖いのと(2020年1月、SNSの記録)

 クラスメートに自分を知ってもらうきっかけをつかめないまま、学校生活は続いた。同級生らには「不思議な子」「勝手に話に入ってくる」とみられていた。中には「爽彩を周りが受け入れなかった」「誰がどう見ても、ハブられていると思った」と認識したり、トイレで泣いているのを気にかけたりしている生徒もいた。

 「女子って怖いですね」。そう担任にこぼしたのは、女子のグループがそれまで悪口を言っていた相手と何事もなかったかのように話しているのを目にした時だった。自分には、その変わり身の早さが理解できなかった。

 担任は他の教員らと朝の打ち合わせや学年会議で情報を共有していた。しかし、爽彩さんのコミュニケーションの取り方が、同世代には受け入れにくいのだろうと捉えていた。同級生とうまく交流できない理由は彼女にあるとの認識で、対応はほとんど担任1人に任された。

 爽彩さんが入学した19年4月、学校はいじめ防止対策推進法に基づき、学年主任やスクールカウンセラーらで構成する対策組織を新たに設置したばかりだった。

 5月の体育祭のころ、爽彩さんから「教室にはいられない」と告げられた担任は、クラスの人間関係に問題があるのではないかと頭を巡らせた。別室で過ごすように対処はしたが、言動の裏側にある苦悩には目が向かなかった。学校の対策組織も機能せず、つかみかけた糸口は失われてしまった。


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C「私は誇りも失うことに」

 中学入学直後に出会った男の先輩から、オンラインゲーム「荒野行動」に誘われ、一緒に参加するようになった。学年や性別が異なる近所の先輩とのつながりが、そこでできた。同調圧力が気になる教室のように「周りと違う」と避けられることもない。人から関心を持たれ、自分の存在が認められている気がした。

 広瀬爽彩さんには絵を描いたり、本を読んだりして過ごす公園があった。地元の小中学生のたまり場で、先輩たちともここで顔を合わせることが多かった。しかし、居心地のよさに依存するにつれ、対等と思っていた関係は少しずつ従属的なものになっていく。

 会うたびに公園付近のコンビニで、ジュースやお菓子、アイスをおごらされた。多い時には一度に3千円。塾に行く際のご飯代として母親からもらっているお金だった。

 自分の物はほとんど買えなくても、先輩たちの要求を断れず、一緒にいたくて笑顔で支払った。

 でも先輩たちといることによって私は誇りも失うことになります。(2020年5月、SNSの記録)

 先輩とのオンラインのやりとりでは性的関心の対象として見られるようになった。LINE(ライン)のビデオ通話を使って自慰行為をさせられた。今度は動画を送るようしつこく要求され、40分以上断り続けた。「動画無理です」「動画とりたくない」。断り切れずに応じると。、要求はエスカレートし続けた。

 19年6月15日。いつもの公園で、実際に目の前でやってみるよう強いられた。「やらなくてもいい」という声も聞こえたが、やらなければならない雰囲気ができていた。ちゅうちょした末に実行した。先輩から離れたくない一心だった。

 直後に立ち寄ったコンビニで、大量にガムを購入し、関心を引こうと先輩たちに配った。再び公園に戻る時は、自転車を勢いよくこぎながら「止まらない」「プレーキかかんない」と言って、オーバーに転んでみせた。

 1週間後。昼から雨が降りやまず、公園の脇を流れる川の流れが速くなっていた。夕方ごろ、園内のあずまやにいると、女の先輩や小学生が近づいてきてからかわれ、別の先輩が自分のしぐさをまねし始めた。さらに「今までのことを言うぞ」と脅された。

 何かがはじけた。脅してきた先輩を思わずたたいた。そのまま「もう死にます」と言い、増水した川に向かう。心身ともに疲れ切っていて、限界だった。背中越しに、女の先輩の「死ぬ気もないのに死ぬとか言ってんじやねえよ」という言葉が聞こえた。


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D川に漬かり「死にたい」

 公園と川を隔てる柵を越え、3・6メートルの高さの土手を降りた。背丈以上に伸びた草やぷをかき分け、川岸にたどり着いた。その場から中学に電話をかけると、教員につながった。

 「1年の広瀬爽彩です」

 「お!・爽彩! どうしたの?」

 「死にたい…」

 「え、どうしたの? 今どこにいるの?」

 「川です…死にたいです…もう生きたくない! 死にたい死にたい死にたい!」

 そのまま膝下まで川に漬かった。水の勢いが強い。しばらく入ったままでいると、駆けつけた教員らの姿が見えた。「先生、死にたい」「爽彩、とりあえず、川から上がろう」。冷え切った手を引っ張られたが、抵抗した。2人がかりで引き上げられ、抱きかかえるようにして川から離された。ずぷぬれになり寒さで震えが止まらなかった。

 連れて行かれた保健室で服を着替え、教員に差し出されたカップラーメンを食べたり、絵を描いたりした。少しずつ落ち着きを取り戻した。その後、パトカーで病院に搬送され、そのまま入院することになった。

 入院から1ヵ月もたたないうちに、警祭官が2度訪ねてきて、画像を送らされたことや、公園でのことを聞かれた。「何か嫌なやりとりをしたということなのかい?」。質問を重ねる警察官に「先輩に洋服を着ていない写真を送ったような気がしてきた」と答えた。

 警察官に「嫌なこと」を聞かれた翌日には、ペットボトルで自分の腕をたたいて傷つけた。2回目の聴取の翌日にも腕や太ももをたたき、「私が全部悪い」「全部どうでもいい、死にたい」と声を上げた。

 スマートフォンに残った履歴を見た母親は、性的ないじめがあったことを知った。先輩との関わりを断つため、遠方への引っ越しを決めた。ただ学校を変わっても、それまでの自分にはもう戻れなかった。

 何もできない。何もする気がない。私という人間。そんな人間に私は存在価値を見いだせなくなってきました。(2020年5月、SNSの記録)

 前を向こうと頑張ってみてもトラウマがよみがえり、フラッシュバックによって過去に引き戻される。過呼吸やパニックを繰り返し「助けて」「やめてください」と錯乱した。心配して声をかける目の前の母親にも、気付けないほどだった。

 心の傷は残り続け、転校先の学校にも通えなくなった。対面せずに交流できるSNSだけが、心のよりどころになっていった。


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E被害者の発達特性に転嫁

 学校や旭川市教育委員会はなぜ、広瀬爽彩さんに対する度重なるいじめの事実を認知することができなかったのか。

 学校側が性的ないじめの存在を知ったのは2019年6月、爽彩さんが川に入る自殺未遂をした後、毎親から訴えを受けたのが端緒だった。すぐに加害生徒らから聞き取りを開始したが、入院中の本人に話を聞くことはできなかった。

 事情聴取をした警察は、爽彩さんの言葉を記録している。「私の頭は、嫌なことがあったら、どんどん記憶を消していくようにできているの。だから、先輩とのやりとりも、すでに頭から消されているんだと思う」

 ところが市教委の記録では、警察から伝えられた内容として「(性的ないじめは)覚えていないと話しており、事件化ができない」と置き換わっている。

 母親は事件後、市教委にいじめに関する相談をし、学校もこれを把握していた。しかし残された記録からは、学校も市教委も爽彩さんが受けた心身の苦痛に着目していじめの可能性を疑うよりも、本人の発達特性の問題として対処しようとした形跡が浮かぶ。

 自殺未遂の2日前、爽彩さんは体調不良を理由に学校を欠席し、自宅から失踪する出来事があった。母親や居合わせた生徒の保護者らが捜索する騒ぎになっている。

 前後には保健室利用や欠席が増えており、旭川市再調査委員会の報告書は、一連の性的被害について「学校が6月20日及び22日に把握した広瀬爽彩の限界を超える様子を見せた出来事と関連付けて考える事は容易であったはず」と記している。

 学校側は、性的いじめを非行と捉え、謝罪させることを急いだ。加害生徒らも謝罪する意思を示していたが、実際にはSNSに遊んでいる様子を投稿し、それは入院中の爽彩さんのスマートフォンにも届いていた。

 爽彩さんは、転校した中学に2学期から通い始めた。その直前、母親は面談でいじめの事実を伝えている。だが前の中学からの引き継ぎ資料には、いじめに関する記載はなく、本人の発達特性にまつわる否定的なニュアンスが伝達されていた。

 転校先の中学は、毎週家庭訪問をするなど爽彩さんに寄り添おうと努力を続けた。しかし事態を好転させることはできず不登校が続いた。

 叫ぶことにすら疲れてしまった(2020年10月、SNSに残された詩の一部)

 爽彩さんがそう発信したのと同じ頃、市教委は学校に不登校の理由を問い合わせている。「病欠が多いのは、いわゆる怠惰によるものではないか。ゲームで昼夜逆転ということはないか」


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F自分が悪い 否定の言葉連ね

 「初めまして。こんにちは。相談しても大丈夫ですよね」

 2020年11月、動画配信者の男性がライブ配信で悩み相談を受け付けているのを見かけ、電話をかけた。広瀬爽彩さんは先輩から受けたいじめが心に残り、学校に通えそうにないことを、誰かに聞いてほしかった。

 「先輩にいろんなものをおごったりとか、ちょっと変態チックなこともやらされたりとかもしたんですけど」

 「先輩は異性?」

 「同性です。でも異性の時もありました」

 男性が腕組みをして、眉間にしわを寄せている。その姿を画面越しに確認して、話を続ける。

 「そういうのにトラウマがあって、もう学校自体に絶対行けなくなってしまって。(中略)学校側もいじめを隠蔽しようとしていて」

 「まあ、そうだよね。今の時代は」

 転校後も学校の先生にはいじめについて詳しく説明しようと思えなかった。ただしばらくすると、SNSを通じて心を開いた相手には聞いてほしいと思うようになった。

 同じ年の5月、ツイッターに2千以上の文字で当時の心情を詳細につづった。性を差し出してまで先輩らの「仲間」でいようとした自分を客観的に捉えようとした。

 だから先輩たちから離れられませんでした。何より何より1人が怖かったから。(中略)もういじめを受けてから1年たちそうなのに私は何もできません。(20年5月、SNSの記録)

 もう、自分が悪いとしか思えなかった。知人とのやりとりでは、自らを否定する言葉を連ねた。

 亡くなる少し前、音声交流サイト「クラブハウス」で交流を深めた男性と通話した。勉強の相談から始まったが、優しい声を耳にして一番聞いてほしい話をしてみることにした。「児童ポルノのようなこともあった」。先輩から受けた性的ないじめについて、絞り出すような声で打ち明けた。

 男性はただ黙って聞き、話し終わると「それは犯罪だ」と強く憤った。「そんなに怒らなくていいよ。私はいない方がよかった。私抜きでみんなが幸せになればいい」と返すと「自分にできることなら力になりたいし、あなたには幸せになる権利がある」。その言葉に救われた気がした。

 21年2月13日午後5時ごろ、母親が出かけたわずかな間に自宅を後にした。氷点下の道をコートも着ずに歩き出す。同じ頃、SNSで知人に最後のメッセージを送った。

 ねえ きめた 今日死のうと思う今まで怖くてさ 何も出来なかったごめんね(21年2月、SNSの記録)


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【時のひと】(24/11/13 京都新聞)旭川いじめ自殺の再調査委員を務めた弁護士

 伊東 亜矢子さん(47)

 北海道旭川市で2021年に中学2年広瀬爽彩さんがいじめを受け自殺した問題の再調査に当たり、主に事実認定を担当した。報告書は公表版で366ページにも上った。広瀬さんに発達上の特性があり、中学でクラスになじめなかった経緯を丁寧に書いた。「このようないじめはどこでも起こり得る」と伝えたかった。

 再調査が動き出した直後の23年1月、皆で遺族を訪ね「爽彩さんが生きてきた軌跡を知りたい」と委員会の姿勢を伝えた。提供を受けた交流サイト(SNS)の記録には、自らの特性をからかわれ、クラスで浮いていることに思い悩む様子が残っていた。思春期の子どもたちが、ある生徒の異質な行動をまねしたり、からかったりする過程をできるだけ詳細に記したかった。旭川で起きたことは特殊ではなく「誰もが一度は見たこと があるような光景だと知ってほしかった」

 ただ、多くの子どもには聴取に応じてもらえず事実認定は難航。クラスの男女が教室内の雰囲気をどう感じていたか。性的ないじめに関わった先輩にも事情や言い分があるのではないか。全てを聞くことはかなわず、人間関係に迫りきれなかった。その中でも勇気を持って話してくれた子どものおかげで調査は進んだ。

 広瀬さんのSNSからは、亡くなるまで抱え続けた苦しみや自責の念が伝わってくる。「いじめに関わった子どもたちは被害者の傷つきを受け止めることで真の反省が得られると思う。報告書がその一助になってほしい」。東京都出身。