KENPOU考 第4部 点検・自民党改憲草案(11月3日 京都新聞)

 @1文字の違い

 戦後社会を形つくってきた日本国憲法はきよう3日、公布70年を迎えた。憲法改正に賛成する勢力が衆参で改憲発議に必要な3分の2を超える中、月内にも両院の憲法審査会が再開される。安倍政権下での改憲が現実味を帯びる中、議論の的になっているのが、「国防軍保持」などを盛り込み、保守色が強い自民党の「日本国憲法改正草案」だ。現行憲法と改憲草案を改めて読み比べ、理想とする社会像の違いを考える。(阿部秀俊、佐久間卓也)

 自民改憲草案は、現行憲法の根幹を支える文言の随所に手を加えている。それらの変更点や加筆は、わずかな手筋によって盤面の色が一変するオセロゲームのように、互いに響き合いながら、この国のあり方を大きく変える可能性を持つ。

 国会では自民草案に風当たりが強まり、同党も草案を国会に提出しない方針を示している。だが、撤回を迫る野党の求めに応じず、党内議論を積み重ねた「公式文書」と強調している以上、改憲後の社会を占うのに検証は欠かせない。まず注目するのは、たった1文字の違い。憲法13条の「個人」から「人」への変更に焦点を当てる。

 現憲法の根源転換

 同志社総長の大谷賢(刑事法)は昨春の同志社大卒業式の式辞で「個人主義こそ民主主義、人権主義、平和主義を支える原点である」と述べ、この1文字の変更を「全体主義への転換を目指している」と踏み込んだ。大谷は言う。「個人主義とは、あらゆる制度や社会は一人一人の幸福のためにあるという理念で、現行憲法の出発点となる考え方。さまざまな人権の櫨源であり、最も重要な条文だ」

 では「人」と変えることにどのような意味があるのか。自民草案の狙いを説明する「日本国憲法改正草案Q&A(増補版)」に言及はないものの、草案の起草委員会事務局長を務めた首相補佐官磯崎陽輔が「私見」としてホームページに発表している逐条解説では「『個人として尊重される』という部分については、個人主義を助長してきた嫌いがある」と指摘している。

 利己主義と混同

 確かに個人主義という言葉は最近、評判が悪い。他人のことを考えない、身勝手な振る舞いをイメージさせるからだろう。自民党憲法改正推進本部が昨春発行した漫画パンフレット「ほのぼの一家の憲法改正ってなあに?」でも、「みんながワガママを主張したら社会は壊れちゃう」「今の憲法は個人主義的」と批判的なセリフが並ぶ。しかし大谷は「憲法が定めた個人主義、つまり個人の尊重は、他人を犠牲にして自分の利益を図る利己主義とは全く異なる」とした上で、個人主義の対義語は「組織のため、社会のため、国のためと称して個人の幸福を犠牲にする全体主義」と位置づけ、その減退を危惧(きぐ)する。

 同じ13条の「公共の福祉」が「公益及び公の秩序に変わった点を合わせて考えると、草案の狙いはより鮮明に浮かぶ。現行憲法の「公共の福祉」は、学説や判例の積み重ねによって「人権同士のぶつかり合いを調整する原理」と解釈されている。例えば「表現の自由」は、名誉権やプライバシーといった別の人権を侵害した場合に限って「公共の福祉に反する」として制限を受け得るが、「社会の秩序を乱すから」「国益を損なうから」などの理由では制限されない。「個人」より「社会」を尊重することにつながるから、という論法だ。

 ところが「Q&A」は、「公益及び公の秩序」と改めた理由について「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした」と、通説を真っ向から否定する。「街の美観や性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難」として、人権とは位相の異なる「道徳」を制約根拠に加える。

 統治のための道具

 龍谷大法科大学院教授の石埼学(憲法学)は、草案全体を通して「法で定めるべきことと道徳の問題を混同している」と指摘する。草案は前文に「国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家」「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形.成する」とあり、同盟条に「家族は互いに助け合わなければならない」と規定する。同3条には「日本国民は、国旗国歌を尊重しなけれはならない」とある。「今の日本社会の価値観では、象徴天皇制や家族についての草案の考え方を肯定的に受け止める人は多いだろう。ただ、その善しあしは別として、愛国心や家族観といった道徳を法に書き込むべきではない」

 石埼は「政治や道徳が法の上にあり、憲法を含めた法規範を統治のための道具だと思っているのではないか」と草案を批判し、「何が正しい道徳であり、何が正義かという判断は個人に委ねるのが近代法の原則だ」と説く。

 個人と、社会あるいは国家との関係は複雑に入り組み、憲法や政治はその在り方に大きな影響を及ぼす。改憲草案で「社会のため」「国と郷土の誇り」を打ち出す自民党も、経済政策では自己責任や自立を強調する。個人の自由に国家はどこまで関与すべきなのか。次回以降は教育や経済、治安などのテーマごとに改憲草案の思想を問い直す。 (敬称略)

 KENPOU考 第4部 点検・自民党改憲草案(11月9日 京都新聞)

 A教育への干渉

 自民党改憲草案は新設の条項も目立つ。第3条には国旗国歌とその尊重義務を定める。1999年の国旗国歌法制定以来、公教育の現場に日の丸掲揚・君が代斉唱が広がったが、卒業式で起立・斉唱を指示した校長の職務命令が違憲かを問う日の丸・君が代訴訟も起こつた。最高裁は合憲の判断を示したものの、上からの一方的な命令は、憲法が保障する思想、良心、学問の自由を脅かすとして教育現場の反発は根強い。国が未来を切り拓くための重要課題と位置づける教育や学問の世界も、制約と自由のはざまで揺れる。

 ギャングの論理

 昨年4月、首相の安倍晋三は参院予算委員会で国立大の国旗国歌実施率の低さを問われ「税金によって賄われていることに鑑みれば、改正教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」と答弁した。その後、文部科学相の下村博文は国立大学長会議で入学式・卒業式での国旗国歌の取り扱いについて「適切にご判断いただけるようお願いする」と要請。一連の動きに、教育学者や憲法学者らが「学問の自由を考える会」を結成、「大学の自治への圧力だ」と撤回を求めた。

 会の呼びかけ人に名を連ねた京都大教授の毛利透(憲法学)は「憲法などに国旗国歌を規定する国はほかにもある。ただ、国の税金を使っているんだから言うことを聞けという風潮は短絡的すぎる」と批判する。「国が大学を援助するのは本来、国に反対するような取り組みも合めて学問活動そのものに社会的価値を認めているからだ。言うことを聞く人だけを援助するというのは、国家という公的な団体の論理ではなく、私的なギャングの論理だ」.と指摘する。

 第1次安倍政権は「教育再生」を旗印に、戦後社会で憲法に準ずる存在とされてきた教育基本法を改正し、「公共の精神」や「我が国と郷土を愛する」重要性を盛り込んだ。そこには、身勝手で行きすぎた「自由」が日本社会を傷つけており、教育によって伝統や道徳を取り戻そうという発想がある。それは自民党憲法草案にも見え隠れし、政治家がしばしはロにする「国益」や「公益」といったあいまいな概念とも通じる。毛利は「自国益に沿って判断する』というが、自分がこれが良いと思うものが国益だという確固たる信念というか思い込みが前提にあるのではないか。何が国益なのかを議論しないまま、私的な意見が国家の名を借りて語られている」と懸念する。「教育においても、一部の人々にとっての『正しい考え』が早急に押しつけられることは避けなければならない」

 「功利」の傾向

 教育や学問の業績もすぐに国や社会に役立つかどうかで価値判断される傾向が加速する。昨年、文科省は国立大学に人文社会科学系や教員養成系の学部の廃止や社会的要請の高い分野への転換を求める通知を出し、26大学で組織改編が進む。自民草案は、教育を受ける権利を定める26条に「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないもの」として新たに国の教育環境の整備義務を規定する。

 教育は国の未来のためだけにあるのか。立命館大非常勤講師の宮崎康子(教育哲学)は「教育や学問が国家のためにあると見ればそれ自体が目的になるが、目的は、人間形成などもっと個々の人間の生の本質と関わる深いもの。教育はそこに到達するための手段であるべき」と語る。

 宮崎は、教育人間学における「贈与論」を引用しながら教育の意味を問う。「教育を目的として捉えれば、交換原理のうちに還元され、子どもにとっては教師が用意した正解を読み取り、求められる結果を出すことばかりが目的になる。交換原理も有用で効率的だが、人間が個をなくすことにもつながる」と指摘。「教育を手段と捉えれば贈与となる。贈られた側は、試行錯誤の過程でまた別の誰かに自分なりの答えを贈る。教育や学問は、こうしたプロセスにこそ価値があるのではないか」

 国家と個人に溝

 国が教育の重要性をうたう一方で、経済協力開発機構(OECD)の2013年調査で国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合は、加盟国平均4・5%に対し、日本は3・2%で、33力国中32位だ。「大学の下流化」などの著書がある京都大名誉教授の竹内洋(教育社会学)は「戦後の『サポート・バット・ノーコントロール(支援はするが統制はしない)という教育行政の原則が、今は『スモールサポート・バッ ト・ビッグコントロール』の状態だ」とみる。「国立大の学者も、研究費確保や校務に追われて疲弊している。教育政策に携わる政治家や官僚は現場の実情を見るべきだ」と説く。

 教育や憲法の議論も、国家対個人という枠組みばかりで語られ、イデオロギーによる分断が進み、言論の居場所が失われていると、竹内は危惧する。「国家と個人の間に何があるのかを議論しない。マスメディアも戦後民主主義のフレームの中で建前しか言わず、その反動でネットに極端な本音主義が広がっている」とみる。「戦前に個人を抑圧したのは国家だけではなく、家やムラも同じ。今の政治も世間にある何となくの空気を媒介に動く『世論政治』だ。国家と個人の溝を埋め、真の意味での公共空間を作らなけれは議論は深まらない」(敬称略)

 KENPOU考 第4部 点検・自民党改憲草案(11月16日 京都新聞)

 B政教分離の行方

 日本国憲法第20条は、信教の自由を保障するため、「政教分離」の原則を規定する。政治に宗教的中立性を求める同条文を巡り、国や地方自治体の宗教行事への公費支出の是非や、政治家や政党と宗教団体の関わり方を問う議論が政治や司法の場で繰り返されてきた。

 自民党草案は現行憲法の20条1項の「政治上の権力」を削除するなど文言を修正した上で、「国及びその機関の宗教的活動」を禁止する3項を見直し、ただし書きとして「社客的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」と付け加えた。自民党「Q&A」は、津地鎮祭訴訟の最高裁判例を参考にしたとして「地鎮祭に当たって公費から玉串料を支出するなどの問題が現実に解決される」と、宗教行事への公費支出の道を開く。

 政教分離の原則は近代に欧米で制度的に確立した。日本では戦前に軍国主義が神道と結びついた「国家神道」への反省から現行憲法に取り入れられた。ただ、国によってその態様は異なり、日本でも「政治と宗教の分離」「国家と宗教の分離」など多様な表現で捉えられ、対立する解釈の着地点は見えない。

 政教分離は法的にはどう定義されるべきものなのか。京都大教授の大石眞(憲法・宗教法)は「憲法が定めるのは『政権』と『教権』の分離、つまり『国家』と『宗教団体』の分離だ。政治と宗教が全く関係してはいけないという意味ではない」と説明する。「政党は国の機関そのものではなく、政教分離の対象ではない。政党の支持団体が政治に影響を及ぼすのは労働組合なども同じだ。日本の政教分離の議論には、日本社会が無宗教、非宗教であると憲法が前提にしているという誤解がある」

 現場の過剰反応も

 ドイツではキリスト教政党が政権を担い、米国では大統領が就任時に聖書に手を置き、宣誓する。「だからといって政教一致という社会ではない。欧米では国家と教会の分離が明確な言葉で示されているが、それは、政治権力が特定の宗教を国教としたり、宗教そのものが国 政の決定権を持ったりすることを否定するということ。日常の中で宗教との距離感を考えることが必要だ」と大石は言う。

 2011年の東日本大震災の被災地では、身元不明の遺体への対応で、自治体から政教分解を理由に、僧侶の読経ボランティアが断られたり、公務員が出席しての供養が禁じられたりするケースもあった。「行き場のないご遺体を手厚く見送るのは当然で、公務員による焼香や自治体が催す合同供養が憲法が禁止する特定の宗教を援助する『宗教活動』に当たるわけがない。政教分離に対する誤った思い込みは現場の過剰反応を生んでしまう」と指摘する。

 一方、現行憲法の規定が、戦前戦中は踏みにじられた信教の自由を守る「歯止め」として機能してきた側面も見逃せない。明治憲法にも信教の自由は定められていた。しかし、神道行事は伝統的祭祀(さいし)であり宗教ではない―という論理により、神道とは相いれない信仰を持つ人を含め全国民を巻き込んでいった。自民草案によって、政教分離の歯止めが外れ、日本の伝統回帰を目指す動きとも相まって、再 び政治と神道の結びつきを広く容認する傾向が強まらないか。そうした懸念は根強い。

 特に、靖国神社を巡っては、終戦直後まで陸海軍省の管轄下に置かれ、国家神道の中心的存在だった歴史もあり、首相らの公式参拝や自治体の玉串料支出などの違憲性を問う靖国訴訟が幾度も起こされてきた。公式参した小泉純一郎元首相は「戦没者追悼は心の問題。政教分離には抵触しない」と訴えたが、司法判断でも違憲と合憲で割れ、最高裁は憲法判断を避けた。社会的儀礼と宗教行為の解釈が定まらない中、20条に例外規定を設けることは「靖国参拝の容認につながり、政教分離原則はなし崩し的に形骸化する恐れがある」との批判もある。

 タブー視の風潮

 国際日本文化研究センター名誉教授の末木文実士(仏教学・宗教史)は「靖国神社を守るか叩(たた)くかという二項対立ばかり。宗教やナショナリズムの問題をタブー視する風潮を改めなければ生産性のある議論にはならない」と説く。

 「戦後の日本は、フランス流の『公共的なものへ宗教を立ち入らせない』という理念を重視してきたが、それが公共の場から宗教を『排除』するという発想になってしまった。宗教分離とは同なのか、それ自体を議論してこなかったのではないか」と末木は問いかける。

 「もし国や政治が誤った方向に行っても、宗教者は口を出せないのか。宗教界が『政治と自分たちは関係ない』という姿勢では怠慢ではないかという考え方もありうる」

 クローバル化の潮流のなか、日本も多文化共生の時代を迎えている。「例えばイスラム圏の人がさらに増えれば、その信仰や人権に公共の場がどこまで配慮するかといった問題も出てくる。宗教や思想を超えた融和の精神がますます必要になる」と末木は将来を見通す。

 「私は自分がナシヨナリストだと思っているが、戦後70年続く平和主義や憲法9条も国の誇りだと思う。ナショナリズムはこれが国の誇りだというものがなければ成り立たない。憲法も政教分離も初めからきちんとしたかたちがあるわけではない。みんなで育てていくものではな いか」 (敬称略)

 KENPOU考 第4部 点検・自民党改憲草案(11月24日 京都新聞)

 C新自由主義の台頭

 いつの頃からか「保守」に対抗する勢力の名称が「革新」から「リベラル」に変わった。伝統を重んじ、変化を嫌うはずの保守派が核をなす自民党は、「中曽根民活路線」や小泉政権の「構造改革」に象徴されるように、改革の道へと歩み出す。「護送船団方式」や「終身雇用年功序列」といった「古い制度を次々に否定し、国民を弱肉強食の大海原へと放り出す。相対する革新勢力は必然、制度を守る側に回り、福祉や社会保障を重視する立場として「リベラル」を名乗るようになった。市場原理に基づく「新自由主義国家」か、人権保障を根幹に据えた「福祉国家」か―こうした近年の経済政策、社会政策上の対立が、自民党改憲草案でも文言上の違いとなって現れている。

 「公共の福祉」削除

 「職業選択の自由」を定めた日本国憲法22条は、選んだ職業を営む権利、つまり「営業の自由」も同時に保障していると解釈される。自民党草案は、この条文から「公共の福祉に反しない限り」の文言を取っ払った。「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と書き換え、規制の色合いを強めた13条屑(個人の尊重)と対照的だ。神戸大名誉教授の二宮厚美(経済学)は草案22条について「新自由主義の思想をより徹底させる条文となり得る」とみる。

 憲法22条の「公共の福祉」は、店舗の適正配置規制や営業の許可制といったさまざまな規制を認める根拠となっている。25条(生存権)が国家に社会的・経済的弱者の救済を命じるのに対し、22条は、救済実現のために、社会的・経済的強者の権利制限を認める条文として機能してきた。草案は「公共の福祉」の文字を消すことで、国家による規制を否定し、市場原理の徹底を目指していると言える。

 生存権空洞化

 一方、25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とする項は草案でもほぼ手つかずだ。二宮は「正面玄関から入らず、裏口から入って25条の空洞化をもくるんでいる」と他の条文への注意を促す。まず、24条に「家族は、互いに助け合わなければならない」と書き加え、家族単位の自助努力を義務づける。さらに「住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う」(草案92条2項)や「地方自治体の経費は(中略)自主的な財源をもって充てることを基本とす る」(同96条)を新設し、地域単位の受益者負担、国家による社会保障の後退を匂わせる。

 また、草案がうたう財政健全化も「典型的な新自由主義の手法だ」と二宮は指摘する。「たとえ赤字であろうと、生活保護や災害復旧などの必要な予算を削るべきではない。しかし、『健全化』という否定しにくい言葉の力によって、借金してまで福祉に金を回すことはない、と展開される」

 こうした新自由主義的な改革は世界規模で進行している。英国では1980年代、サッチャー政権が「ゆりかごから墓場まで」に象徴される社会福祉政策にメスを入れ、米国もレーガン政権下で市場原理の徹底や社会保障費の削減を進めた。そして90年代以降、ソ連崩壊やIT(情報通信)革命、中国の台頭などを背景に、新自由主義を基調とした経済のグローバル化が加速していく。格差拡大も世界的な現象となり、もはや一国だけで解決できる課題ではなくなっているのかもしれない。

 理念はどこへ

 「グローバル化が進む世界の中で、どのように生き残っていくのか。大きな国家観を考える人が少なくなってきている」と憂う同志社大大学院ビジネス研究科教授の村山裕三(経済安全保障)は、「海洋国家」をキーワードに再生の道を模索する。海洋国家とは、軍事に重点を置くのではなく、交易を生存戦略のよりどころにする。「資源が少なく、市場規模も小さい日本は、鎖国して生きていくことは不可能。むしろIT革命によって拡大した市場を基盤に、交易に力を入れるべき」と説く。

 そして村山は、交易の拡大が安全保障にも寄与するとみる。「グローバル化の結果、国家間の相互依存関係が深まれば深まるほど、その関係の破壊がもたらすコストは大きくなる」からだ。もちろん、自国のビジネスが有利になるように軍事力をちらつかせる国は存在し得る。「だからといって、日本が軍事力で対抗するのは現実的ではない。安全保障問題もコスト計算させるように促すのが、海洋国家の知恵ではないか」

 米国や中国のように武力を背景に、自分たちのプリンシプル(原理)を押しつけるのではなく、相手の国に応じてバランスを取りながら交易するのが海洋国家。では、プリンシプルそのものである憲法はどうあるべきか。村山は「米国は、根本理念に『個人の自由』を据え、法体系はすべて、いかに個人の力を最大限に発揮させるか、『創造的エネルギーの解放』の思想に貫かれている。しかし日本は、少なくとも米国型の『個人の自 由』をベースにした社会ではないだろう」と分析する。

 自民党草案の前文は「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という理念を掲げ、続く一文で「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」と記す。二つの文の間には深い溝があり、今の日本社会、国際社会の現実に照らし合わせると、簡単には埋まりそうもない。(敬称略)

 KENPOU考 第4部 点検・自民党改憲草案(11月30日 京都新聞)

 D安全安心の代償

 日本国憲法の31条〜40条は刑事手続きや裁判に関わる条文が並ぶ。現行憲法に大幅な変更を加える自民党草案だが、これら10力条にはほとんど手を入れておらず、改正の狙いを示した「Q&A」にも言及がない。ただ1カ所、拷問及び残虐な刑罰の禁止を定めた36条から「絶対に」の文言を削除した点が異彩を放つ。例外的には許されるという意味だろうか。9・11後に成立した米国の愛国者法は、テロリストに限定して令状なしの盗聴や無条件の7日間拘束などの「例外」を設けている。そして日本でも「テロ対策」の名の下、「例外」の拡大が進んで いる。

 捜査権限は拡大

 「通信の秘密」(21条2項)の侵害や「令状主義」(35条)の没却といった懸念から反対論の根強い「通信傍受法(盗聴法)」は、対象を組織犯罪に限定することで1999年に成立した。ところが、今年5月成立の改正通信傍受法(来月1日施行)は放火や殺人から窃盗、詐欺にまで対象を広げ、「例外的な運用をなし崩し的に拡大させた。立命館大教授の渕野貴生(刑事訴訟法)は「本来は取り調べの適正化を目指した刑事司法改革の一環だったのに、結果的には捜査権限の拡大につながった」と捜査機関の「焼け太り」を指摘し、「刑事司法の分野は、憲法を変えなくても法改正で対応できると考えているのかもしれない」と推測する。

 改正法は、組織性の要件も厳格とは言えないため「一般市民のプライバシー権(13条)が広範に侵害される危険がある」とみる渕野は、より大きな問題点として「傍受の効率化」を挙げる。これまでは捜査員を通信施設に派遣し、職員立ち会いの下で傍受していた。改正法では、通信記録を伝送して捜査機関の施設内で傍受することも可能になる。「通信傍受は、これから行われる会話への予測が必要なため、裁判所の令状審査が甘くなりがち。そこで、捜査員の派遣、24時間の待機、通信事業者等の立ち会いといった『非効率』な仕組みが乱用の歯止めとして機能していた」。格段に労力が減ることで「傍受の日常化」が懸念される。

 一連の刑事司法改革では、他人の犯罪解明に協力すれば起訴見送りなどの利益が得られる「司法取引」や、刑事責任を問わない代わりに自己に不利益なことも含めて証言を強制する「刑事免責」なども導入された。渕野は「無実の第三者に罪を押しつける可能性は否定できない」とした上でこう続ける。「密告を奨励し、相互不信の社会を生み出しかねない」

 法で心も処罰か

 すでに社会のありようは変化しているのかもしれない。街にあふれる「防犯カメラ」。かつては「監視社会」を招くと批判されたが、今は「安心・安全」の方がはるかに優先される。京都府警のアンケートでも「大いに必要」「ある程度必要」が9割を超える。防犯メールに至っては、 安心を脅かす気配だけで、「不審者情報」として拡散される。

 犯罪を実行しなくても、その意思に合意しただけで罪に問われる「共謀罪」は「テロ等組織犯罪準備罪」と名前を変え、来年の通常国会に提出される見通しだ。「心の処罰は許されない。憲法19条(思想及び良心の自由)違反だ」の批判は「テロ対策」を前にして、果たして市民に届くだろうか。安心・安全のためなら、多少のプライバシー侵害や権利制限は構わない。ましてや悪いことをする人間の人権など、知ったことではない。そうした空気は確実に広がっている。

 両立への道探れ

 こうした変化を見つめ、安心・安全と、個人情報やプライバシー権を両立させる道を模索する学者もいる。京都大准教授の稲谷龍彦(刑事学)は、テクノロジーの進歩によって捜査機関の情報収集能力が飛躍的に向上している点を「捜査にかかる人的、経済的コストの面から見れば肯定すべき状況」と捉える。その上で「令状主義による厳格な取得制限に固執するのではなく、取得した情報の保存や管理、利用ルールとともに最適な情報保護体制を構築するべき」と発想の転換を促す。捜査機関にとって使える「武器」を増やす一方、取得じた情報へのアクセスは厳密に管理する。「プライバシー侵害で一番問題となるのは、捜査機関による目的外の乱用だから」との考えだ。

 こうした転換について、稲谷は「適正手続き戦略」という言葉で説明する。司法部門が権利侵害を個別的に防ぐ方法は「現状、十分に機能していない」。実際、裁判で「違法捜査」の訴えが認められるケースは極めて少ない。そこで「政治部門による立法で民主的にルールを定める方が、適正な情報のコントロールにつながる」と展開する。例えば、捜査対象の車両などに令状なしでGPS (衛星利用測位システム)端末を取り付ける手法を巡っては現在、最高裁で審理中だが、「一律に厳格な取得制限を課すのではなく、得られた位置情報の扱い方に法的なルールを設ける方が建設的ではないか」と提案する。「刑事手続きは法律で定める」とする憲法31条の「本来の趣旨に戻る考え方だ」と稲谷は語る。

 確かに、技術の進歩に伴う新しい捜査手法に対し、法規制が必要なことは論をまたない。その時、安心・安全と引き換えに、どこまで権利の制限や侵害を甘受するのか。稲谷の議論に即すれば、問われているのはわたしたち市民である。 (敬称略)

 KENPOU考 第4部 点検・自民党改憲草案(12月7日 京都新聞)

 E苦悩する9条

 戦後一貫して護憲、改憲論議の中「心には憲法9条があった。1950年創設の警察予備隊に始まった自衛隊は、国連平和維持活動(PKO)協力法や周辺事態法によって海外へと活動の範囲を広げ、昨年成立した安保関連法では、ついに集団的自衛権の行便まで容認された。9条はその間、現状を追認するかのように解釈変更が繰り返されもはや「死文化」したとも言われる。ある意味「改憲派」の圧勝に見えるが、それでもなお自民党草案は国防軍の創設を含む明文改憲を打ち出している。平和憲法の象徴である9条はどこへ向かうのか。

 「駆け付け警護」などの新任務を帯びた自衛隊員が南スーダンに派遣され、今月にも運用が始まる。戦闘に巻き込まれるリスクの増大が懸念される事態-に、京都精華大専任講師の白井聡(社会思想・政治学)は「自衛隊員に死者が出たら、現政権は間違いなく政経利用するだろう」とみる。「これ以上、尊い犠牲がないように憲法を改正すべしだ」と。憲法を変えるには最終的に国民投票が必要でハードルは高い。「でも、先に戦争状態を作って既成事実にしてしまえは、あとは現実を肯定してもらうだけで済む」

 従属の構造

 白井は単純な護憲派ではない。何より、憲法9条が米国の「押しつけ」であることを肯定する。しかし、改憲派のように「だから自主憲法の制定を」とは展開せず、「押しつけ」の構造自体に着目する。「自衛のための軍事力をも否定する条文を作ったのが米国であれは、再武 装を命じたのも米国。そして集団的自衛権も、やはり米国の覇権維持の文脈から出てきた」。そうした状況の根本には70年前の「ゆがんだ敗戦処理」があったとする白井は、いまだに「対米従属」の構造を維持・強化し続けている事態を「永続敗戦」と名付けて批判する。

 戦後から冷戦期までの対米従属は、強いられたものであったと同時に、日本にとっても国を復興し、共通の敵に対抗するという「理由付け」があった。しかし冷戦が終わっても対米追従をやめない保守政権は「従属を自己目的化している」と白井は指摘する。そして、自己目的化の内実は「国益とは無関係の権力者の利権にすぎない」

 9条も従属の結果にすぎないが、それでも白井は意味があると捉える。「文字通りに守られていないのは確かだけれど、最後の歯止めにはなっている。いわば車のサイドブレーキ。ギアを入れてアクセルを踏むと車は動くけれど、全く意のままには動かせない」

 ポスト日米安保

 リベラル保守を自任する東京工業大教授の中島岳志(近代思想史)も、ブレーキとしての9条に「日本の主権をぎりぎりのところで担保していた」と一定の評価を与える。朝鮮戦争やベトナム戦争への直接的な加担が避けられたのは9条のおかげである、と。ただ、そうした戦略 的な9条保持は、集団的自衛権の行使を認めるに至って、もはや機能しなくなり、「綱引きのゲームは終わった」とみる。

 中島の持論は「自衛隊の存在を9条の中で承認し、何をしてはならないかを明確に規定すべき」、つまり国家における最大の「暴力装置の立憲主義的なコントロールを重視する。その意味では、自民党草案の「9条の2」の考え方に近いかもしれない。ただ、9条の持っている絶対平和主義の理念は「維持すべき」と主張する。その意図を中鳥は、哲学者カントの「統整的理念」と「構成的理念」の概念を用いて説明する。実現不可能だけれど、少しでも近づこうと努力する統整的理念があってはじめて、実現可能な現実主義としての構成的理念が成立す る。「両者の対話こそが重要であり、どちらかに偏ると、単なる理想主義か単なる現実追認主義になってしまう」

 そして中島は、現在の日米安全保障条約の下で、集団的自衛権の容認に踏み切った政権を批判する。「これまでは米国による日本の防衛義務と、日本からの基地提供や思いやり予算がバーターになっていた。集団的自衛権を認めた結果、不平等条約になってしまった」とし、「世界が米国一極集中から多極化に向かいパワーバランスが崩れつつある今こそ、アジアの国々との共存を探るポスト日米安保の構想が必要だ」と説く。

 対等の関係

 一方で、集団的自衛権の行使容認によってようやく米国に物が言えるようになった、との見方もある。京都産業大教授の東郷和彦(国際政治)は「防衛義務と基地提供はそもそも非対称な関係で、これまで日本は米国を守ることに一切の協力ができなかった。それこそ正常な同盟関係とは言えない」と語る。その上で、対等の関係になったからこそ「ロシアとの領主交渉など、米国の政策や利益とは異なる行動を取ることも可能になる」と元外交官の経験として展望する。

 また、集団的自衛権行使の要件を「我が国の存立が脅かされる」「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危機」などと限定した点に「国民や政府はこれらの制約の中身を問い続ける必要があり、真剣に学ばなければならない事態に直面している。憲法や法律で決まっているからと、人ごとで済ませられなくなり、自らの問題として戦争や平和に向き合う時代に入った」と積極的な意義を見いだす。

 矛盾に満ちた9条だが、それでもなお世論調査では「改正必要なし」が多数派を占める。白井はその理由を「今の保守勢力と戦前との連続性に対する根本的な不信感、嫌悪感があるのでは」と推測し、「もし改憲して堂々と再軍備に踏み切りたいのなら、『あの戦争』の総括は絶対に避けて通れない」と言い切る。

 日本を取り巻く国際情勢の変化に目を向けながら、過去へのまなざしも忘れない。理念と現実の往復運動の先にしか、9条の未来のかたちは見えてこないだろう。 (敬称略) =第4部おわり