KENPOU考 第6部 「共謀罪」の思想(3月13日 京都新聞)
(上)戦前との符合
心の中に芽生えた犯罪の意思を害悪とみなし、刑罰の対象とする「共謀罪。いま、その思想を宿した「テロ等準備罪」創設の是非が、国会で議論されている。市民の自由・権利がいたずらに侵害されないよう、外部に表れた行為に限って処罰する従来の枠組みから、人の心に分け入って「危険の除去を試みる刑法への転換。そこには、権力の乱用を防ぐ立憲主義的な思考の後退も関係しているのではないだろうか。 (阿部秀俊)
刑法は、市民の生命や財産を犯罪から守るための法律だが、同時に、全ての法律の中で最も厳しい制裁手段を有するため、その適用には慎重さが求められる。そこで、日本国憲法31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定め、この条文が刑法の基本原則を規定しているとの解釈が判例や学界の通説だ。そこには「犯罪は行為でなければならず、思想や内心の状態は処罰対象にしない」とする「行為主義」も含まれる。
ところが共謀罪は、犯罪の実行に向けて合意が成立した時点で処罰できる。例えば窃盗罪に共謀罪規定が設けられると、2人以上で窃盗計画を立てたことが発覚した段階で逮捕、起訴される可能性がある。
「共謀罪法案」提出に反対する刑事法学者声明の呼び掛け人、京都大教授の高山佳奈子(刑法)は「刑法では、実際に被害が発生した場合か、その恐れが観念的なものにとどまらず現実的なものとして認められる場合に限って処罰が正当化される。考えて、話し合っただけでは処罰できない」と批判する。「どれほど危ないことを考えても、頭の中には干渉しない」
「思想を裁く、言葉を裁く法律だ」。反発は強く、共謀罪法案は過去3度、廃案になった。そこで政府は、名称を「テロ等準備罪」に改めて「テロ対策」を前面に掲げ、今国会での法案成立を目指している。共謀罪と異なり、計画した犯罪を実行するための「準備行為」を要件に加えたものの、高山は「一定の危険性を備えていることが要件とされておらず、何の制限にもなっていない」と一蹴する。
政府は「一般の人が対象となるのはあり得ない」「準備行為があって初めて処罰対象となる。共謀罪と呼ぶのは全くの誤り」と批判封じに懸命だ。こうした状況に、神戸学院大教授の内田博文(近代刑法史)は「大正末期から昭和初期の時代と酷似している」と危機感を抱く。
治安維持法案を審議した1925(大正14)年2月の帝国議会。答弁に立った国務大臣若槻礼次郎は「思索の自由を許しておかなければならぬという議論に対しては、全然同感であります」「世間には、この法律案が労働運動を禁止するがためにできるように誤解している者がいる」と強調した。委員会では「労働者や新聞社の一部において反対する模様があるが、これはよく法律を見て条文をよく読み、その精神のある所を考えたならば少しも心配する必要はない」と諭している。
翌26年、さっそく同法は発動される。「京都学連事件」。京都大などでマルクス主義を研究する学生らの活動が「私有財産制度の否認を目的とした協議」に当たるとして、最高で懲役7年に処せられた。具体的行為ではなく「協議」が犯罪とされた。
坂道転がるごとく
いったん反対の声が封じられると、坂道を転がり落ちるように同法は「改正」を重ね、無政府主義、共産主義にとどまらず、労働運動や民主主義、自由主義の運動を弾圧していった。
思想そのものをターゲットにした治安維持法と、将来の犯罪につながる意思を処罰する共謀罪とは、確かに異なる。しかし、内田は「刑罰国家化」していく過程に不気味な共通項を見いだす。治安維持法の時代は「関東大震災があり、国民が経済的に困窮状態に陥る中、対策を訴える無産政党などの声を封じ込めるため、治安政策を前面に押し出していった」。新自由主義の名の下に福祉政策が後退し、労働市場の流動化で中間層がやせ細っていく現状と照らし合わせ、「もはや福祉によって国民を統合することは不可能で、安心安全で国民を束ねている。国家のレゾンデートル(存在理由)として、刑罰国家しか打ち出せなくなった」とみる。
自白や供述重視に
さらに内田は、現行憲法の制定によっても拭い去れなかった治安維持法の「負の遺産の存在を指摘する。
欧米諸国と違って日本は、捜査段階の自白を裁判の有罪証拠として使うことができる。これは治安維持法の適用に伴って初めて導入された手続きで、戦後も「未曾有うの混乱と治安悪化」を理由に温存されて現在まで至るという。「共謀罪は実行行為がないため、自白や供述が重視される。この時、戦前に生まれた強大な捜査権限が遺憾なく力を発揮することになる」
治安維持法の「改正」にただ一人、反対の意思を貫いた国会議員・山本宣治(1889〜1929年)は、議会演説の草稿をポケットに忍ばせたまま、右 翼の「テロ」の凶刃に倒れた。死の前日、演説で語った言葉が、宇治市の高台にある墓碑の裏に刻まれている。
「山宣ひとり孤塁を守る/だが私は淋しくない/背後には大衆が支持してゐるから」
いま、大衆は…。(敬称略)
KENPOU考 第6部 「共謀罪」の思想(3月14日 京都新聞)
(中)敵の名は―
「腹が減っては戦ができない」と、犯罪を実行に移す前に仲間と腹ごしらえをする―。立命館大教授の松宮孝明(刑法)は「こうした無害で中立的な行為も罪に問われる要素になりかねない」と、政府が国会提出を目指す「テロ等準備罪」に強い懸念を示す。
思想を裁くとの批判が根強い共謀罪からの「衣替え」を目指す政府は、新たに「計画犯罪を実行するための準備行為」を犯罪成立の要件に加えた。ただ、法案の条文上は「資金又は物品の手配、関係場所の下見ぞの他」とされており、松宮は「『その他』があるため、いくらでも広い解釈を取り得る。さらに条文は『計画した者のいずれか』の行為で足りるとしているため、1人でメシを食いに行つても要件を満たすことになりかねない」と批判する。
法案は「目的が対象犯罪を実行することにある団体」とも定義し、一般人への適用を否定しようと試みる。しかし、法務省は「正当な活動を行っていた団体でも、目的が犯罪を行うことに一変した場合は処罰対象になり得る」との見解だ。「犯罪集団」に不正権益を得させること となる行為の計画をした者の処罰については「組織性」の要件すらない。
松宮は「結局、共謀罪と本質は何ら変わりない。そもそも共謀罪と別物であるなら、国際組織犯罪防止条約の批准に共謀罪は必要なかったということなのか」と手厳しい。国内向けには「テロ対策」を打ち出しておいて、国際的には「共謀罪を作った」ことにするつもりだろうか。
共謀罪の本質は「意思」を処罰する点にある。それは、客観的に有害な行為のみを犯罪とする刑法の基本原則(行為主義)からの逸脱を意味し、日本国憲法の保障する「思想良心の自由」(19条)や「表現の自由」(21条)を脅かす可能性もある。では、このように実際の犯行に至らない段階まで処罰を「前倒し」することの意味はなんだろうか。
不買容さと通底
松宮は、刑法の性質を「市民刑法」と「敵味方刑法」の二つの側面に分けて説明する。「市民刑法は、悪い行為をしたことに対する応報、つまり過去にやった犯罪に罰を与える考え。だから受刑して罪を償ったら、また同じ市民として社会に受け入れる」。これに対して敵味方刑 法は「市民と相いれない敵を指定し、やったことに対する罰ではなくて、その危険性に対する措置として使われる刑法」を指す。「社会に与えた善悪ではなく、これから起こり得る危険を対象にする。その典型が共謀罪だ」
敵味方刑法的な考えは、世界的に広がっているという。人やモノが国境を越えて移動するグローバリゼーシヨンの時代にあって、その国の法や文化に包摂されない存在は「敵」として排除される。その時の敵とは、誰なのか―。
不覚容さの広がりは厳罰化の流れとも通底する。「厳罰化によって犯罪が減るという客観的なデータはない」と指摘する松宮は一方で「厳罰化によって増加した犯罪がある」と明かす。道交法違反の「ひき逃げ事件」だ。交通事故件数が減少傾向の中、ひき逃げ事件は2000年 から急増し、08年のピーク時には増加前の3倍に達した。1998年から業務上過失致死傷罪の量刑が上がり、マスメディアは「飲酒運転蚤罰化キャンペーン」を展開した。01年には危険運転致死傷罪が新設されている。「飲酒して人身事故を起こした人間を敵視しすぎて、結果として被害者の命を危険にさらしている」
高まる国家依存
龍谷大教授の金尚均(キムサンギュン)(刑法)は現代を「危険社会」と位置づけ、安全性への欲求の高まりを背景とした刑法の変容を分析する。「社会の複雑化や科学技術の発達に伴って社会のリスクが増大し、それと並行するように刑法の守備範囲が広がっている」とみる。有害食品や原子力の脅威、複雑な経済システム、環境破壊などに対し、刑罰で対処する立法が進む。また、市民社会に溶け込まない「敵」は「害悪を発生させる恐れのあるリスク源とみなし、監視・処罰の対象とする。まるで人間を、銃砲刀剣類規制の拳銃のように扱う」
社会に潜むリスクと将来に対する不安を強調することで、近代憲法の理念である「国家からの自由の保障も後退を迫られる。金は「安全への志向が強まれば、国家への依存を高めることになる。社会の重要テーマが『自由』から『安全』にシフトし、『安全』を保障してくれる強いリーダーを求める傾向になる」と、この国の現状を見つめる。
実行の目前まで迫ったテロの危機を放置して良いとは、だれも思わない。一方で、わずかなりスクさえ見逃すまいと、刑法の戦線を際限なく広げていく社会も健全とは言えない。共謀罪は、一つの試金石かもしれない。(敬称略)
KENPOU考 第6部 「共謀罪」の思想(3月15日 京都新聞)
(下)近代の揺らぎ
私たちの時代の敵に「名はない」と、高崎経済大准教授の國分功一郎(哲学)は言う。話し合っただけで罪に問う「共謀罪がターゲットにする敵は、名を持たない、正体不明の存在。そもそもいるのか、いないのかすらはっきりしない「潜在的な敵」―!。
道徳における「善悪」や実学の「美醜」のように、政治においての究極的な区別を「敵と味方」と考えたのはドイツの政治哲学者力ー,ル・シュミット(1888〜1985年)だ。「政治の根本とは、物事を決めること。だから必然的に敵と味方の区別が生まれる」と説明する國分だが、シュミットが定義した三つの敵「慣習的な敵」「現実的な敵」「絶対的な敵」では、現状を説明できないとみる。
「慣習的な敵とは、『おまえの敵はあいつだ』という決め事に従って戦う傭兵の時代の敵。続いて現れたのが、自分の利害を脅かす現実的な敵。これは利害関係が解消すれば敵ではなくなる。20世紀になると、徹底的な殲滅の対象として、例えば共産主義にとっての資本家のような存在が生まれる。これが絶対的な敵」と整理する。
潜在的な敵に網
この三つに続くのが、対テロ戦争の時代に入って現れた「潜在的な一敵」だという。確かに、テロリストは「どこかには」いる。それを「どこにでも」いるかのように想像して生み出した「可能性としての敵」に、法の網を張ろうとする。「これまでの敵は『おまえは敵か味方か』と問いただせるけれど、潜在的な敵、可能性としての敵は存在しないかもしれない。いない連中を利用して物事を決めているのが、現在の政治体制だ」このとき、権力と市民の関係も変容を迫られている。「暴力によって従わせた絶対王政の時代から、監視や管理によつてコントロールする近代以降の世界。そして今の権力は、潜在的な敵を利用し、市民が進んで自由を差し出すように仕向ける」。権力の乱用を防ぎ、市民の自由や権利を保障する近代思 想の根幹が、揺らごうとしている。
國分は「テロ対策は必要」とするが、処罰範囲を大幅に拡大する「テロ等準備罪」には懐疑的だ。それは現在の民主主義が抱える根本的な問題に由来する。主権は国民にある。しかし「主権の行使は立法権が中心。法律を作る国会議員を選ぶことはできても、実際に法を適用し、運用する行政や警察を民主的にコントロールできる制度的な担保は少ない」と指摘する。
ドイツの思想家ペンヤミン(1892〜1940年)は警察組織について、法を維持する装置でありながら、法の適用領域を広げて事実上の法を作ってしまう側面があることを見抜いた。國分は「法は、主権を離れて解釈、適用される可能性を常に秘めている。だからこそ、適用の条件をできる限り明確にしておくことが大切。しかし、今回の法案は罪名からして『等』が入っていて、あらかじめ無限の解釈を想定しているかのようだ」
1947年の新憲法施行によって、日本社会は一変した―。作家の黒川創は、こうした史観に「ある種の『わな』が潜む」と指摘する。「憲法は理念法であり、自動的に社会を変える力はない。現実の政治は、まず政令で決めて、次に法律を改正し実質的に憲法を空洞化させていく」
刑法に至っては、いくつかの削除条項と法定刑の変更を除き、今も基本は戦前のまま。抜本的に改革された刑事訴訟法でも、自白調書の証拠採用といった戦前の制度が温存されている。黒川は「私たちの社会の出発点を戦後に置くのは視野が狭い。もう少しカメラを引き、明治以降の150年の中で、近代法が果たしてきた役割を見直すべきではないか」と提案する。
引いたカメラによって捉えられるのは、大逆事件(1910〜11年)だ。明治天皇の暗殺を計画した罪に問われ、社会主義者の幸徳秋水ら12人が死刑に処された。罪刑法定主義をはじめ現在と同じ刑法体系だったにもかかわらず、刑法73条(47年削除)の「天皇(など皇室)二対シ危害ヲ加へ又ハ加へントシタル者ハ死刑二処ス」の規定により、「危害を加えようと計画した」として死刑になった。
「彼らは革命を夢想していたにすぎず、具体的な計画の片鱗すらなかった」とみる黒川は、今回の法案にも同じ危険の芽を見いだす。「皇室に対する罪」という戦前においても例外的な規定であった大逆罪と、「テロリズム集団その他に限って」例外的に処罰するテロ等準備罪。いずれも「人が心の内で思い描いたことを裁こうとする」。
正義の名の下に
テロの語源はフランス革命期のテロル(恐怖政治)にある。互いの「思想」「心」に疑心暗鬼になり、正義の名の下に処刑を繰り返した。黒川は「こうしたテロの連鎖に歯止めをかけるための知恵として近代法が生まれた」と語る。正義であろうが、悪であろうが、内心は問題にせず、あくまでも実際に社会に与えた害悪に法を適用すること。
しかし、政権はいま「潜在的な敵」におびえ、「テロルの思想を下敷きにした法案」(黒川)を準備している。その意味で、私たちが立つのは、近代の黄昏ではなく、いまだ鍛え直していくべき近代の途上ではないだろうか。(敬称略)
LINEで共謀 逮捕?(3月21日 京都新聞)
あいまい表現も対象
21日閣議決定される組織犯罪処罰法改正案の「テロ等準備罪」は、「共謀罪とは全く異なる」ほど要件を厳格化したとされるが、いまだ処罰範囲が広すぎるとの懸念が残る。これまでの国会論戦を振り返っても、犯罪計画への合意の定義は不明確なままで、身近なコミュニケーションツールであるLINE(ライン)での何げない「表現」まで処罰対象とされかねない。
無料通信アプリとして幅広い世代で使われているラインは、一対一のメッセージだけではなく、複数人でグループを作って同時にやりとりする機能がある。例えば、大学生の仲間うちでグループを立ち上げると、日々の情報を自由に投稿することができる。そこにある日、「米軍基地建設が始まる。座り込みで実力阻止しよう」と1人が書き込み、他のメンバーが言葉や絵文字、スタンプで次々と賛同したらどうなるだろう。法案や国会答弁の内容を踏まえると、組織的威力業務妨害罪の「共謀」で全員逮捕される可能性がある。
先月27日の衆院予算委員会で、金田勝年法相は「メールやラインでも(犯罪の)合意が成立することはあり得る」と述べた。「ラインのグループの性質が一変すれば、組織的犯罪集団になり得るのか」との追及には、「合意に加え、実行準備行為があって初めて処罰される。閲覧した事実だけでは、具体的、現実的な合意が成立することは想定できない」とかわしている。
実行準備行為とは、政府が「共謀罪との違い」として強調する要件だ。法案には「その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたとき」に処罰できる、とある。与党内で示された資料では「必ずしも『客観的に相当の危険性』を必要としない」とされ、それ自体が無害な行為でも要件を満たすことになる。
従って、グループ内の1人が現場に向かうための切符を手配すれば、「厳格な」要件はクリアされる。また合意の定義を巡っては、2005年の共謀罪法案審議の際に「目くばせでも成立する」との答弁があり、最高裁も03年、具体的な指示や打ち合わせのない「黙示的な意思の連絡」で足りるとする判決を出している。今国会の答弁では、意思表示の手段も問わないとされたため、絵文字やスタンプによるあいまいな「意図」ですら、捜査 のさじ加減一つで計画への合意と捉えられかね い。
京都弁護士会の「共謀罪新設阻止プロジェクトチーム」座長の秋山健司弁護士は、こんな例も挙げる。
窃盗を繰り返す不良集団と嫌々付き合う「気弱な少年」が、ラインの画面に「今夜11時集合」のメッセージを見つける。無視はできないので、「同意とも取れる」スタンプを投稿して布団に入る。しかし、集団のうち1人でも集合場所に行ったら、やがて少年の家に警察官がやってくる―。
秋山弁護士は「実際に処罰まで至るかは別にして、投稿に犯罪の疑いがあると判断するのは捜査機関。逮捕の可能性は十分ある。共謀罪はコミュニケーションを標的にするため、捜査は盗聴や自白が重視される」と指摘する。
ラインのメッセージやメールのやりとりは、現行通信傍受法によって傍受ることが可能だ。金田法相は、テロ等準備罪を傍受の対象犯罪にするかは「検討すべき課題」と含みを持たせている。(阿部秀俊)