【識者評論】 「共謀罪」法成立 (6月17日)
ジャーナリスト 小笠原みどり「真実」を消すのが狙い
「共謀罪」の国会審議で政府が繰り返した「一般人には関係ない」という答弁に耳を疑った。イッバンジンってナニジン? 誰が誰を「一般人と決めるの?私も「一般人」?
実はこれは、現政権が駆使する社会心理操作の一手法だ。法案の中身を隠しつつ「一般人」なる架空のカテゴリーをつくって人々をそこへ誘導し「あなたは関係ないから大丈夫」と宣伝する。
真実は逆である。
共謀罪は人々の日常会話やメール、チャット、ネットへの書き込みなど、全コミュニケーションを対象とし、犯罪の合意や準備があったと考えられれば成立する。会話が実際に犯罪に関係するかは、内容をみなければ分からない。だから捜査は犯罪と無関係な会話も対象にし、盗聴ど監視が必要手段になる。共謀罪は私たちの私的な人間関係に警察が介入する合法的な理由を与える。
政府は既にネット上の通信内容を収集する手段を手にしている。米国家安全保障局(NSA)が世界中に秘密裏に張り巡らした電子監視網を告発したNSA元契約職員エドワード・スノーデン氏は昨年5月、私のインタビューに、自分が勤務していた東京の米軍横田基地にNSA日本代表部があると明かした。NSAは日本と情報共有するため、日本政府に特定秘密保護法をつくるよう圧力をかけた、と語った。
共謀罪審議中の4月、米メディアなどは、NSAが日本に監視装置「エックスキースコア」を提供したと記した機密文書を公開した。スノーデン氏が「スパイのグーグル」と呼ぶ装置だ。フェイスブックなどネット上の非公開個人情報も網羅する。例えば「安倍」「打倒」の言葉で検索すれば、政権に批判的な人々を特定することもできる。
つまりナニジン枠など存在しない。国家の監視はいまや全人口を潜在的敵対者と扱っている。
秘密保護法、マイナンバー制、盗聴法拡大、共謀罪と強行される監視法制の狙いは何か。「一般人」答弁に表れたように、私は心理操作と情報操作による「不都合な真実」の消去だと考える。
全コミュニケーションを監視対象とする共謀罪は、人々の心に恐怖を植え付ける。自分の言葉の何が犯罪と思われるか分からない。だから権力者の神経に触りそうな発言は控える。メディアも報道関係者も自制する。共謀罪こは、自首した者の刑を減免する密告奨励条項もある。万人を万人に対する「会話スパイ」へ,変えることができる。
人の口に上らない真実は、権力者にとり存在しないも同然だ。沈黙の隙間を広告とゴシップとスポーツ記事が埋めていく。原発惨事の放射能が人々を苦しめ、過労と貧困が同時進行し、戦争が明日に追っても、情報操作で平穏を偽装できる。
私たちは、既に真実から遠ざけられている。国連特別報告者が共謀罪に懸念を表明すると、政府は報告者の役割をおとしめる挙に出た。相手の社会的信用を傷つけ、発言を無効化するのも、情報操作の常とう手段だ。
真実をゆがめ、国内向けのうそがバレて国際社会に逆ギレする政府。私は国際連盟脱退時の日本を想起した。破局へ突き進んだ異常な時代が現在に交差する。人が真実を知り、語る自由を手放してはならない。
専修大教授 山田健太表現の自由 崩壊を予感
議論回避・国民不在の中で「共謀罪」の法律が成立した。一連の国会運営、衆参委員会審議の内実のなさは、議会制民主主義ひいては多様な意見の存在を保障した表現の自由崩壊の「終わりの始まり」を予感させる。
第1次安倍政権時代(2006〜07年)の憲法改正国民投票法の審議では、専門家の意見も含め広くさまざまな声を拾い、可能な限り国民各層の考えを取り入れようとの姿勢が見られた。実際、最終的には与野党の意見がおおよそ一致したうえでの法制定だ。
それが第2次政権(12〜14年)での特定秘密保護法では、強行採決での決着ではあったが、国会での審議の結果、付帯決議などがついて監視機関の設置や表現の自由の配慮条項が追加された。
そして第3次政権(14年〜)の安全保障関連法では、内容には手を付けることなく、当初予定より審議時間を費やすことで、野党のメンツを立て、ある意味では、国民的議論を提供した。
しかし今回は、完全なる対話拒否である。その象徴的事例は国連人権理事会の任務の一環として行っている特別報告者からの質問に対し、抗議こそすれ、必要な情報提供を拒否した。その「答えない」との姿勢は国会審議でも徹底しており、最後はいまやお決まりと言ってよい審議打ち切りと強行採決である。
しかも共謀罪は、直接的に市民生活にかかわる可能性が高いにもかかわらず、その解釈について政府答弁が二転三転している中での強行採決だった。
こうした異論を抑え込む政府姿勢は、市井の言論状況にも大きな影響を与え続けている。それは、監督権限を基にした行政指導や政権党による抗議・要請という具体的な形をもって、取材・報道の自由に萎縮をもたらしてきた。
これは、いわば「官製」の自主規制である。さらにいえば、これが公共施設や自治体の作品撤去、講演中止といった、市民活動における忖度(そんたく)行動に強く結びついているということになる。
また法案段階での議論の欠如は、制定後にも大きな影響を及ぼす。国会審議が恣意(しい)的な運用の歯止めになる側面が強いにもかかわらず、そうした効果をほとんど何も期待できないからだ。
その結果、ただでさえ曖昧な犯罪構成要件の解釈は、取り締まり機関の高い自由度が確保され、運用される可能性が高まっている。それは、表現の自由をはじめとする人権の侵害に直結する。
そして言論報道機関は、今回の共謀罪制定に関し主張の違いはあるにせよ、市民社会に十分な判断材料を提供するという、その社会的責任を果たし得ただろうか。
例えば条約批准のためには新たな国内法整備が必要でテロ防止に役立つという政府説明を、国会最終盤に至るまで十分に検証しきれなかった。その結果、法案の中身の問題性が被い隠され、テロ防止のためには新法が必要という単純化された世論の形成がなされた。
法施行後、共謀罪の恣意的運用を止めることができるかどうか、権力監視というジャーナリズムの真価が問われることになる。
もちろん、こうした不自由な言論状況を容認する多数の政治家を国会に送り続けているのは、私たち自身であることを強く自覚する必要があ る。